夕刻になり邸の部屋に戻ると、土で汚れた衣や痣と擦り傷だらけの竜虎を見るなり、清婉が悲鳴を上げた。
「疲れた········死ぬ······」
ぐったりとそのまま床に寝そべり、転がる。ぬるま湯の入った桶と布巾を手に、清婉は傍らに座って、汚れた頬をとりあえずそっと拭う。
「大丈夫ですか? 初日からすごい有様ですね、」
「いや、ホント······雪鈴ってあんなひとだったんだな。白笶公子の方が優しいとさえ思ったぞ」
「え? そうなんですか? これ、雪鈴殿にやられたんです?」
清婉もそれには驚いて、やはり只者ではなかったんですね、と感心する。
そしてあの衝撃的な場面を思い出す。あれは昨日の料理の下準備の時だった。生の南瓜を片手包丁で、眉ひとつ動かさずに一刀両断していたのだ。しかもそれを見ても自分以外誰も驚いていなかったことから、これが彼の日常風景なのだと知る。
「あの方が剣を振っている姿を想像ができません。どちらかというと雪陽殿の方がしっかりした身体付きですし、」
「そうなんだよ。そこが不思議でならない。あのひと、終止笑顔で内弟子たちを叩きのめしていたんだぞ。しかも誰よりも腕力あるし、」
ある意味、彼の真実を垣間見た気がする。あの性格なので、内弟子には当然慕われていて、あの歳で弟子たち二十人を纏めているもの納得だ。
「楽しそうでなによりですね」
膨れた顔をしていても楽しそうに話す竜虎を見ていると、ふたりが手合わせをしている姿を見てみたいとも思ったが、やめておく。自分は自分のやるべきことをし、それ以上は望まないに越したことはない。
「少し休んだら、身体も拭いてください。着替えはここに置いておきますね」
言って、清婉は部屋を後にし、夕餉の手伝いをするため厨房へと足を向ける。
(食事で少しでも元気になってもらえるよう、私も頑張らないと!)
夕陽に染まった渡り廊下を軽い足取りで歩く。厨房につけば昨日と変わらない顔ぶれがすでに揃っていて、奥で雪鈴と雪陽が仲良く並んでこちらに手を振った。
「竜虎殿は大丈夫でした? 調子にのって少し遊びすぎてしまったもので」
あははと首を傾げて困ったように訊ねる雪鈴に、周りにいた内弟子たちは皆揃って顔を背け、苦笑いを浮かべる。
「········あれ、遊んでたんだ」
「········滅茶苦茶楽しそうだったもんな、」
「あの笑顔が······俺は怖いよ」
清婉はそんなことは露知らずに、ふたりの許へと駆け寄る。
「とても楽しそうでしたよ(だいぶボロボロでしたけど······)」
「ふふ。それは良かったです、」
じゃあ始めましょうか、と号令をかけて、夕餉の準備に取り掛かる。無明も今頃|白冰の所で座学を受けているはずだが、正直、どうなっているかはあまり想像したくなかった。
気を取り直して、食材を吟味し、献立を決める。この時間はとてもやりがいがあり、清婉はよしと頷き包丁を手に取った。
✿〜読み方参照〜✿
無明《むみょう》、白笶《びゃくや》、竜虎《りゅうこ》、清婉《せいえん》、白冰《はくひょう》、雪鈴《せつれい》、雪陽《せつよう》
夕刻になり邸の部屋に戻ると、土で汚れた衣や痣と擦り傷だらけの竜虎を見るなり、清婉が悲鳴を上げた。「疲れた········死ぬ······」 ぐったりとそのまま床に寝そべり、転がる。ぬるま湯の入った桶と布巾を手に、清婉は傍らに座って、汚れた頬をとりあえずそっと拭う。「大丈夫ですか? 初日からすごい有様ですね、」「いや、ホント······雪鈴ってあんなひとだったんだな。白笶公子の方が優しいとさえ思ったぞ」「え? そうなんですか? これ、雪鈴殿にやられたんです?」 清婉もそれには驚いて、やはり只者ではなかったんですね、と感心する。 そしてあの衝撃的な場面を思い出す。あれは昨日の料理の下準備の時だった。生の南瓜を片手包丁で、眉ひとつ動かさずに一刀両断していたのだ。しかもそれを見ても自分以外誰も驚いていなかったことから、これが彼の日常風景なのだと知る。「あの方が剣を振っている姿を想像ができません。どちらかというと雪陽殿の方がしっかりした身体付きですし、」「そうなんだよ。そこが不思議でならない。あのひと、終止笑顔で内弟子たちを叩きのめしていたんだぞ。しかも誰よりも腕力あるし、」 ある意味、彼の真実を垣間見た気がする。あの性格なので、内弟子には当然慕われていて、あの歳で弟子たち二十人を纏めているもの納得だ。「楽しそうでなによりですね」 膨れた顔をしていても楽しそうに話す竜虎を見ていると、ふたりが手合わせをしている姿を見てみたいとも思ったが、やめておく。自分は自分のやるべきことをし、それ以上は望まないに越したことはない。「少し休んだら、身体も拭いてください。着替えはここに置いておきますね」 言って、清婉は部屋を後にし、夕餉の手伝いをするため厨房へと足を向ける。(食事で少しでも元気になってもらえるよう、私も頑張らないと!) 夕陽に染まった渡り廊下を軽い足取りで歩く。厨房につけば昨日と変わらない顔ぶれがすでに揃っていて、奥で雪鈴と雪陽が仲良く並んでこちらに手を振った。「竜虎殿は大丈夫でした? 調子にのって少し遊びすぎてしまったもので」 あははと首を傾げて困ったように訊ねる雪鈴に、周りにいた内弟子たちは皆揃って顔を背け、苦笑いを浮かべる。「········あれ、遊んでたんだ」「········滅茶苦茶楽しそうだったもんな、」「あの笑顔が···
竜虎を含む剣術系の術士候補の弟子たちは十六人おり、残りの五人は邸の敷地内にある、別の修練場で符術系の白冰の修練を受けているらしい。 ここは白家の裏手にある霊山の中腹辺りで、周りは高い崖に囲まれている。足場が悪く、修練場だというのにあまり整備されていないようだ。 白笶と雪鈴が前に立ち、十六人は前後に八人ずつ二列で横並びしていた。竜虎はこちらの修練に雪鈴が参加していることが意外だった。見た目からしても細身で剣など握れなそうだが······。「みんなも知っている通り、今日から金虎の公子である竜虎殿が一緒に修練をすることになりました。けれどもこれはあくまで修練。公子も内弟子も関係ありません。いつも通り、遠慮なく全力で励んでください」 にこにこと満面の笑みでそんなことを言う雪鈴の言葉に、弟子たちは少し躊躇うが、はい、と揃って返事をした。 白笶は例の如くひと言も言葉を発していないが、それを補うように雪鈴が説明してくれる。ある意味均衡のとれた組み合わせなのかもしれない。 そして実際修練が始まると、白笶はひとりひとりに短いが的確な指示を出していた。一対一で手合わせをする形式で、準備運動のようなものなのか、体術の基本的な動作から始まった。(体術は得意な方だが、やはり一族ごとに形は違うんだな) 組み相手から繰り出される突きや蹴りを受け流しながら、そんなことを考える。こういう状況で思い出すのもあれだが、兄の虎宇との一方的な手合わせに比べると、余裕すらある。あんな性格だが、兄弟の中で実力は一番上なのだ。 しかし気を抜けば危うい攻撃に、手を抜くなんていう選択肢はなかった。「······基本は問題ない。踏み込みの際の利き足に注意すれば、より速く動ける」「あ、はい。やってみます」 今までその場その場で臨機応変に動くことに慣れているせいか、利き足を意識したことがなかった竜虎は、改めて言われたことを実施してみる。 すると、先程よりも一歩速く動けるようになった。当然繰り出される拳の力も増して、組み相手が両手で塞いだのにも関わらず大きくよろめいた。「ごめん、平気だった?」 そのまま地面に倒れてしまった相手に手を伸ばして、そのまま立ち上がらせる。「ああ、途中で気付いて手を抜いてくれただろう? おかげでこの通り、怪我はない」 自分より二つ年上の十七歳だという目の前の青年
竜虎は前日に用意してもらった、白群の弟子たちが纏う修練用の白い衣に袖を通す。剣術や体術の修練をするのに適した作りのその衣は、手足の先の部分が細く作られていて、試しに簡単な動作をしてみたが、かなり動きやすかった。「これで準備は完了です」 着替えの手伝いを終え、清婉はぽんと肩を軽く叩いて合図をした。「ああ。あれ、そういえばあいつはどこに行った? 朝餉の後から姿を見ていない」「無明様ならここに戻る前に夫人に引き留められて、どこかに連れて行かれたようです」「······なんで夫人が?」 さあ? と清婉は首を傾げる。邸の中は安全だし、麗寧夫人はどうみても善人なので、無明が馬鹿をやっても笑ってくれる寛容さもありそうだ。竜虎は深く考えないことにした。「じゃあ、行ってくる。無明が戻ったら、大人しくしてろと伝えてくれ。あいつは夕刻から白冰様の部屋で個別で教えてもらうらしいから、それまでに準備は整えてあげて欲しい」「解りました。任せてください」 早い朝餉を終え、半刻も経たない内に修練が始まるのだ。邸から少し離れた山の方に修練するための場所があるらしい。最低限の荷物を持って竜虎は別邸を後にした。 その頃、無明はなぜか麗寧夫人の部屋に連れて来られていた。豪華なものはなにひとつなく、綺麗に整えられたその部屋は藍歌の部屋に似ていて、なんだか親近感を覚える。部屋の中を見回していると、夫人が円座を用意してくれて座るように促した。「ふふ。一緒にお茶でもしながら、話し相手になってくれるかしら?」「え? えっと、俺なんかでいいの?」 いいの、いいの、と夫人は笑みを浮かべたまま茶器を用意し始める。白い磁器の蓋付きの茶碗を無明の前に置きゆっくりとその蓋を開けると、花の蕾のようなものがふたつ入っていた。「桃花の花茶よ。見てて?」 無明は言われたとおりに茶碗をじっと見つめていると、少しずつお湯の中でその桃色の蕾が開いていき最後には見事な桃花が花開いた。「すごい! こんな綺麗なお茶、初めて見た! しかも甘い香りがするねっ」「そうでしょう! 私の実家から送られてきたのだけど、みんな忙しいから一緒にお茶してくれる人もいなくて。ここにいる間、あなたが付き合ってくれると嬉しいわ」「うん! 俺も夕刻の座学までは特になにもすることがないから、麗寧夫人が一緒に遊んでくれるとすごく嬉しい!
宴という名の歓迎会が終わり別邸に戻ると、疲れていたのか早々に三人は寝床についた。夜も更けた頃にふと無明は目を覚ます。横で寝息がふたつ聞こえる中ゆっくりと身体を起こして、何の気なく水浅葱色の薄い衣を羽織り、足音を立てないように別邸の外へと出た。 渡り廊下には屋根があり、橋についているような欄干に手を付いて下を眺めれば、水の上に浮かんだ美しい白い蓮の花たちが可憐に咲いていた。しばらく眺めた後、欄干に寄りかかって屋根の隙間から見える月を見上げれば、澄んだ星々が夜空一面に広がっていた。「······呼んでる、の? 俺を······?」 なぜ? と無明は目を細める。「どうして俺なの? ······俺は、神子なんかじゃないのに、」 都に入ってから時折聞こえてくる声があった。優しい青年のような声音。無明はその声を前にも一度聞いたことがあった。(奉納舞の後に、聞こえてきた声のひとつ) 待っている、と言っていた。 あの時の声のひとつが、この碧水に入ってからずっと、頭の中で話しかけてくるのだ。「眠れないのか?」「わあっ!?」 後ろから突然かけられた声に、無明は思わずびくっと肩を竦めた。呼びかけられた声で立っている者の正体はわかっていたが、頭の中の声に集中していたせいで思わず驚いてしまった。「すまない。驚かせてしまったようだ····」「ううん、ちょっと考え事してて····こっちこそごめんね? えっと、こんな時間にどうしたの?」「怪異を鎮めて戻って来たところだ。君はこんな時間にどうしてここに?」 帰って来たばかりだというのに、留守にしていた分の溜まっていた依頼を片付けてきたらしい。少しも衣が汚れていないが、公子自らが出向くとなれば強い怪異だったはず。「うん····よく眠れなくて。その、こんなこと言うと変って思われるかもだけど。頭の中で声が聞こえて······ここに来てから、ずっと聞こえてて。でも俺は、その声に応えてあげられないんだ」 横に並んだ白笶を見上げれば、その不思議な色合いの瞳と目が合った。そういえば、白漣とも白冰とも違う。灰色がかったその青い双眸は、懐かしさを覚える。「応えなくともいい」 ひと言、白笶はゆっくりと呟く。え、と無明は思ってもいなかった答えに目を丸くする。「君が、応えたくなかったら応えなければいい。応えようと思った時に、応えてや
陽が落ち、夜の気配が訪れた頃。 白家の大広間には宗主と夫人、白冰と白笶、竜虎と無明の他に従者である清婉や雪鈴と雪陽、白群の弟子たちも揃っていた。 他の分家の者たちはおらず、あくまで白家にいる者たちだけが集められていた。お互いの挨拶もそこそこに賑やかな雰囲気の中、用意された膳にひと口手を付けたその時、その場にいた白群の者たちが全員静まった。「あれ? みんなどうしたのかな?」 皆が箸を手に持ったまま、固まっているのだ。しん、と静まる中、無明と竜虎は不思議に思って目を合わせる。 それとは逆に清婉がさああっと青い顔をしてふたりの後ろで縮こまっていた。「も、もしかして······お口に合わなかったんでしょうか?」「え? おいしいよ······って、清婉が味付けしたの?」 どおりでなんだか懐かしい味がすると思った、と無明は頷く。「お前······手伝いじゃなくて本格的に味付けしたら、もはや紅鏡の味にならないか?」 竜虎は肩を竦めて呆れた顔で後ろを向く。ぶんぶんと清婉は否定の意味を込めて首を振る。「ちゃんと碧水、というか厨房にあった料理の指南書を確認して、雪鈴殿たちに味見もしてもらいましたよっ」 三人ともこそこそと声を潜めて会話をしているが、集まれば賑やかしくもなる。しかしその静寂を破って一斉にその場が歓喜の声に包まれる。「なんて美味しいの! 市井でもこんなに美味しい料理、滅多に食べたことがないわ」 夫人が明るい声で幸せそうな顔で頬に手を添えていた。宗主の夫人である麗寧は宗主よりもずっと若く、二十歳以上は下に見える。美しさと可愛らしさを併せ持ち、性格も朗らかで人当たりも良く、白冰は性格も顔も明らかに夫人似だとわかる。「もてなすつもりが、こちらがもてなされてしまったようだ」 白漣宗主は頷きながら感心したように膳に並べられた他の料理を見渡す。どれも彩り豊かで、いつもの食材が全く別の物に見えた。白冰は自分が去った後の厨房でいったい何が起こっていたのかと首を傾げる。「すみません。私たちが至らないばかりに、清婉殿に助言していただいたばかりでなく、結局ほとんどお任せしてしまい······」 雪鈴が頭を下げ、困ったように笑みを浮かべた。最初はその包丁さばきに感心し、弟子たちも含めて皆で清婉を囲んで料理教室のようになってしまったのだった。「そうなの? そ
厨房を後にした白冰は、別邸の方へと足を向ける。白家の別邸はいくつかあるが、その中の客人用の別邸は本邸の西側にある。渡り廊下で繋がっているため、行き来は比較的楽で外に出る必要がない。 渡り廊下の下は水で満たされていて、そこには白い蓮の花と青々とした葉が浮かんでいる。夏の頃は非常に涼しくて良いのだが、冬になると凍りはしないがかなり寒さを感じさせる造りだ。 碧水の都は湖の上に建てられた建物が多く、市井の方は運河を行きかう商人たちの舟が特徴的で、水と共存した生活を送っている。故に碧水は湖水の都と呼ばれているのだった。 西の別邸の扉を叩くと中から扉が開かれ、見下ろし見下ろされる形で翡翠の大きな瞳と目が合った。翡翠の瞳の彼は、へへっと顔を緩めて敵意をこれっぽっちも感じさせない無防備な表情で、こちらに笑みを見せた。「無明、竜虎殿、片付けは終わったかい?」「うん。ほとんど清婉がやってくれたおかげでもう済んだよ。白冰様たちも玄武の宝玉の封印終わったんだね」 白冰はこの数日の関わりで、無明が時々敬語を使わないことに対して少しも腹が立たなかった。むしろ新鮮で、それを許せる雰囲気が彼にはあり、自然すぎてそれを無礼だとかそんな風に思う事すらなかったのだ。「君たちも初めての長旅で色々と疲れただろう? 休ませてあげたいところだけど、母上がどうしても君たちのために宴を開きたいと言うものだから、もう少し付き合ってもらうと助かる。金虎と違って豪華なもてなしはできないが、食事会だと思って気軽に楽しんで欲しい」「お心遣いありがとうございます。まだ挨拶もできていないので、場を設けてもらってこちらも助かります」 きっちりと腕を囲って揖し、もうひとりの公子である竜虎は挨拶をする。 無明とはまた違い、公子らしいこの少年には道中きつい態度を取ってしまった。弟が絡むと大人気なくなってしまう自分の余裕のなさに、反省せざるを得なかった。「あと、俺のことも竜虎と呼んでください。明日からはこちらで修練も参加させてもらうつもりです。それに、白冰殿と違い俺はまだまだ修行の身なので、殿などと呼ばれる資格もないですし」「資格がないというのは違うと思うけど、師と弟子としての関係ならばこちらも気兼ねなく呼ばせてもらおう。でも私は君の師にはならないけどね」 え? と竜虎は首を傾げる。白冰は大扇を開き口元を隠すと